暮らしの挿話

日々の暮らしのなかに在る、身近なものたち。それらにまつわる物語を綴ります。

夏の終わりの線香花火

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「みんなで花火しませんか?」
時刻は夜の11時。まだまだ明るい我がオフィスでは、僕を含めて4人のスタッフが残業している。自慢じゃないがいつもの風景だ。
その中でも今年入社した新卒の瑞穂ちゃんが、突然声をあげた。
「だって毎日毎日遅くまで残って働いて!今年夏らしいこと一個もやってません!本城さん、ここの屋上って入れますよね!?」
僕に話題をふらないでほしかった。でも弱気で内気な僕は控えめに答えてしまう。
「まあ、あそこはいつも開けっ放しだからね」
「じゃあ、これから行きましょう今すぐ行きましょう!」
そうは言っても、屋上で花火はダメなんじゃないだろうか。それに夏が終わるこの時期じゃあ、近くのコンビニではもう花火は売っていない。僕は説得しようとおそるおそる口をひらいた。
「あのね、瑞穂ちゃん。たぶん、もう花火は売ってな」
「花火ならここにあります!」
「あるのかよ!」
僕の言葉に食い気味で答えた瑞穂ちゃんに、さらに気持ちのいいつっこみが決まる。僕の隣の小金井くんだ。瑞穂ちゃんが鞄の中から引っ張りだした手持ち花火セットに思わず口をついてしまったようだ。
「あはははは、そこまで準備されちゃあ行くしかないわねぇ」
普段は規則に厳しい経理である萩野さんの一言で、全員の屋上行きが決定してしまった。

 

僕らの会社の屋上は狭い。オフィスも狭いんだから当たり前だ。コンクリートがむき出しで殺風景な屋上は、花火に適していると言えば適していた。まあ、常識的に会社の屋上で花火なんてよくないとは思うけど。
「さて、ちゃっちゃとやりますかー」
「小金井さんそんな情緒のかけらもない言い方しないでください。私の夏の思い出が色褪せます」
オフィスの給湯室で水を入れたバケツを置いて、近くにろうそくを立てる。たばこを吸う小金井くんのライターで火を灯し、それぞれに瑞穂ちゃんから配られた小さな手持ち花火を持った。
それぞれ花火に火を点けていく。しゅーっと静かに火薬が燃える音を聞きながら、僕らは鮮やかな火を見つめていた。
「なんだか学生時代に戻ったみたいで楽しいわね」
荻野さんのこんな無邪気な顔をはじめて見た。早速次の花火を物色している。
「荻野さん、そんなに花火好きなんですかー?」
小金井くんが面白いものを見たという調子でからかう。
「え?いや、なんか、すごく久しぶりでつい...」
おぉ、照れてる。これもレアだ。花火の揺れる光に照らされた荻野さんは、ちょっと別人のようだ。心拍数が少しだけトクンと上がった。
小金井くんもそうだったのか、既にちゃっかり隣でしゃがんで花火の火をもらっていた。その行動力が心底うらやましい。苦笑しつつ瑞穂ちゃんの方を見ると彼女は早くも線香花火を手にしていた。
「日本人として、最初に線香花火やっちゃうのはどうなの?」
「本城さん、既成概念なんてのは壊してなんぼの世の中ですよ」
見ためイマドキの女の子である瑞穂ちゃんと”既成概念”という単語のギャップにまたも苦笑しつつ、僕も線香花火を一本もらうことにした。
火を点けるとゆっくりと赤い火球がふくらみ、火花がはじけだす。
僕と瑞穂ちゃんは何を話すわけでもなくじっと小さな花火を見つめている。線香花火って意味もなく感傷的な気分になるなぁと、ぼんやり思う。
「...ほんとはこの花火、彼氏とやるはずだったんです」
「え?」
ぼーっとしてたので、意味が頭に入ってこず間抜けなリアクションをしてしまった。
「会社帰りに待ち合わせて、そのまま海なんか行っちゃって、ふたりで夏の思い出作ろうね、なんて言ってたのに」
「...」
「名案だ!楽しそうだねって笑ってくれたのに」
「...」
「急に、いつまでガキっぽいこと言ってんだとか…意味わかんないですよ」
「...」
「本城さん聞いてますか!?」
「...一応」
言葉を吐き出すたびに涙をためていく年下の女の子にかける言葉なんて、あいにく僕の辞書には載ってない。なるべく水をささないように黙って聞くことくらいしか出来ない。
線香花火はいつの間にかコンクリに落ちていた。
「一応ってなんですか傷心の女の子相手に」
「...どんまい」
「軽っ。そして短かっ。もう少し慰めてくれても」
「...彼氏と仲直りできるといいね」
「フってやりましたよあんな奴。急に態度が変わった理由は、別の可愛い女に告られたからで、そっちに乗り換えるつもりだったらしいですから。彼氏の友人からがっつり聞きだしました」
「...」
恋愛偏差値の低い僕は展開の早さについていけない。それほどのバイタリティがあれば、別に傷心でも大丈夫なんじゃないだろうか。
「とまあ、そんな感じでこっちからフってやったわけですが、花火をしようって約束は宙ぶらりんになっちゃって。約束を上書きしたくて今日はみなさんを巻き込んじゃいました」
そう呟いた瑞穂ちゃんは少しばつが悪そうで、すねたような表情は子供のそれだった。自分でも子供っぽいことは百も承知なのだろう。それでも実行したのは、彼氏を好きだった気持ちに区切りをつける儀式が必要だったのかもしれない。ちゃんと好きだったんだろうな。
「上書きはうまくいきそう?」
「んー、ぼちぼちです。都会の真ん中で花火というのもなかなか貴重な体験ですよね」
僕たちはもういちど線香花火に火を点ける。
向こうでは調子にのった小金井くんがドラゴン花火に火をつけようとして、さすがに荻野さんに止められているところだった。身長の高い小金井くんの手からライターと花火を奪い取ろうと、ぴょんぴょんジャンプしている荻野さんがシュールだ。今日は本当に彼女の意外な一面をたくさん見る。
そんなふたりを瑞穂ちゃんは口を大きく開けて笑っている。その天真爛漫さに引っ張られ、僕もつい笑顔になる。笑っている僕たちに気づいた小金井くんと荻野さんも自分たちのはしゃぎっぷりに苦笑しながらこっちに来て、線香花火を受け取った。
ホント僕たち、社会人にもなって何やってんだか。
瑞穂ちゃんの失恋、荻野さんの無邪気さ、小金井くんのときめき、いつも顔を合わせている同僚たちの知らない一面。そういう一面を知れたことに僕はちょっと感動していた。決して社交的ではない僕は、こういった人の輪の中に入って仲を深めるのが苦手だったからだ。「大人になっても、花火って楽しいんだね」
「それじゃあ、どうぞ。ラスト一本です」
瑞穂ちゃんが最後の線香花火を僕に手渡す。
「最後ですから、慎重にお願いします」
小金井くんが花火の切っ先にライターで火をつける。僕は動かないようにじっと集中する。
今までで一番大きな火花がパシパシと散り始める。
「すごーい!」
瑞穂ちゃんは楽しそうに笑い、荻野さんはもう落ち着いてアンニュイな表情で見つめている。小金井くんはスマホで写真を撮ることに熱心だ。
あぁ、夏だな。
「良い夏の思い出だ」
「あ」
つい口に出したその瞬間、今年の夏は落ちて消えた。
fin.

インターネットの黒い雨

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黒い雨が見える。
理不尽な上司に罵倒される若者に、男から見下される女に、いじめられている子供に、黒い雨は誰にでも降り注ぐ。
ときに数滴、ときに土砂降りに、黒い雨はいつもどこかで誰かを濡らしている。
度が過ぎれば、雨はその人間を殺す。窒息させるのだ。もちろん物理的にではない。心が、精神が、呼吸できなくなるらしい。
俺は仕事柄、そうやってずぶ濡れになった人間をよく見る。死期が近い人間の周りは、多かれ少なかれいつも黒く濡れているものだ。
黒い雨は、人間の悪意。
俺の名前は忌一。まあ、いわゆる死神だ。

 

はじまりは些細な書き込みだった。
「ウルブスの堂島って八百長してたんじゃね?」
誰が書いたのかもわからない匿名掲示板での一言から、それは始まった。
いつの世でも有名人の醜聞は大衆の娯楽だ。プロ野球選手ほどの知名度ならば、根も葉もない、ただのやっかみやクレームのような噂話はいつもどこかで囁かれている。本来それらは表立って語られる事はない。
しかし、堂島は運が悪かった。
そう、単純に運が悪かったのだと忌一は思う。

 

ウルブス10年ぶりの悲願であるリーグ優勝がかかった試合の終盤。その打球が打ち上げられた瞬間に誰もが思った。
「これでウルブスが優勝だ!」
堂島のポジションへゆっくりと落ちていく平凡な打球。確実にアウトになるだろう。しかし、堂島のグラブはボールを取り逃がした。
あり得ないミスだった。堂島は地面に落ちたボールを慌てて広い全力の返球をしたが、それでも間に合わない。ドラマさながらの幕引きに、敵チームからの歓声が爆発した。この瞬間のファンからの堂島への悪意の雨は俺にも理解できるものだった。

その劇的な敗北以来、堂島の不運は続く。勝負時に出番が回ってきては、ことごとく盆ミスを繰り返した。事態を重く見たウルブスの監督は堂島の降格を決定。その通告を受けた堂島は引退を宣言。球界から姿を消した。引退の決意がプライドゆえか、諦めゆえかは世間は知らない。

 

八百長疑惑のきっかけは、ただのやっかみから始まった。ネット上の巨大匿名掲示板に立った「元プロ野球堂島の自宅が豪邸過ぎるwww」というスレッドが始まりだったようだ。
そこには海外の富豪のような屋敷のプールで健康的に泳いでいる堂島選手の笑顔の写真が掲載され、それに関しての有象無象なコメントで溢れていたのだが、ある意見で様相は一変する。
「堂島の経歴であんな豪邸をもてるのはおかしい。あの経歴じゃそんな金稼げねーよ。せいぜい年俸だって○○円くらいだろ?」
そこから一通り堂島の資産について盛り上がり、堂島の生活が次々と暴かれていった。
プロ野球入り直後から現在までの紆余曲折。自称元同級生、元ご近所、元球団関係者といった人々からの書き込みで堂島の今までの暮らしぶりが明らかになる。
一人一人の書き込みは憶測、推測、邪推かどうか判別のつかないものだ。ただ、数が集まればそれに流される。それがこの国の人々の特長だ。自分とは関係がない、どこかの恵まれた有名人相手ともなれば、その勢いはもう止まらない。
堂島の金回りが良くなった時期が、例の劇的な敗北後からだと断定されるのに、さして時間はかからなかった。

 

そこから先は、まるで坂道を転げ落ちるような顛末だった。
「堂島元選手と○○組の黒い取引!八百長は真実か?」
「元プロ野球堂島の妻は元風俗嬢?」
「試合を操る黒い影。堂島は操り人形だった」
「恥を知れ!負けを金に換える錬金術師:堂島正臣」
「噂の堂島選手の娘がかわいすぎる件について」
堂島に関する醜聞がネット上で爆発した。堂島の野球人生を高校はもちろん、リトルリーグまで遡りそこでの反則行為まで調べあげてあげつらう。真意は関係ないようだ。
激しく炎上した炎は、本人だけでなく家族、友人など堂島の親しい人々にまで及び、ついにはマスメディアまでこの話題へ言及し始めた。
それだけ取り上げられても証拠は出なかった。あるのは人々の心に取り憑いた果てしない疑惑だけ。しかし証拠など関係なく、祭りだと言わんばかりに顔の見えない群衆は群がっていった。
堂島が抵抗すればするほど、ネット上には堂島をこき下ろすコメントが溢れ、テレビから発信される言葉は野球など関心のない人々にも堂島への悪印象を植え付ける。そもそも、やっていないことを証明するのは相手が諦めない限り、もしくは飽きない限りは続く悪魔の証明だ。
今や堂島への悪意はネット上、メディア上にはとどまらない。彼の自宅の壁は落書きされ、玄関には常に記者が貼りついている。嫌われ者、不正を疑われた者には何をしても許される、そんな思い込みを免罪符に人々が堂島の私生活を侵食した。

 

今、私の目の前で揺れてる堂島は真っ黒に塗れている。
家族は、どこか別のところに逃がしたようだ。
黒い雨は洪水のように彼に降り注いでいた。
一滴いってきは小さな、ほんの少しの悪意。
快適な自宅で、退屈な通勤電車で、何を思うでもなくなんとなく書き込んだおもしろ半分のコメントたち。まあ、大半は憂さ晴らしなんだろう。自身のままならない現実からくる苛立ちを、祭り上げられた見知らぬ生贄にぶつけているんだろう。
本人たちは悪意などではなく、ノリや好奇心だと言うかもしれないが、堂島にとっては紛れもない悪意だ。無数の悪意が大きなうねりとなって彼を呑み込んだ。
悪意の雨は、マスメディアや現実生活からも湧き出し堂島を濡らしていたが、ネットからの洪水が圧倒的だ。
怖い時代になったものだ。
私が死神として存在し始めてからの世界において、これほど悪意が気軽に、リーズナブルに発せられる時代を私は知らない。
全てが噂に過ぎず事実無根であっても、匿名性を許された人間はどこまでも分別のない言葉を垂れ流すのだろう。
気の毒に。膨大で気軽な黒い言葉の洪水が、蛇のようにいつも獲物を探している。

 

嫌な時代になったものだ。
顔の見えない薄っぺらな悪意に濡れた魂に触れるのは、死神の私でも気持ち悪い。
本当に、気持ち悪い。

fin.

次回は氷のしろくまを

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「ちゃんと勉強してるー?」

そう言って母ちゃんが無遠慮に扉を開けた。ジュースを差し入れてくれるのはいいけど、満面の笑顔にむかっとする。
「すみません、ありがとうございます」
俺と机を挟んで向かい合っている戸村がぺこりと頭を下げる。さすが戸村、礼儀正しい。けど母ちゃんに礼儀なんて必要ないぞ。
「宿題大変ねぇ」
なんて良いながらにやにや俺の方を見る。初めて彼女を連れてきたナイーブな息子を完全にからかっている。
なるべく二人きりだって意識しないようにしてるってのに!顔が赤くなっているのが自分でもわかる。
「いいから早く出てけよ!もう用はねえだろ!」
「はいはい。あ、変なことしちゃだめよー?まだ中学生なんだからー」
ふざけんな!と言葉が飛び出す前にドアを閉められた。くそっ。むしゃくしゃするけど戸村の前でこれ以上醜態をさらすわけにはいかない。
俺はなるべく平静を装って床に座り直し、シャーペンを握る。
「...あんな母親で、ごめん」
赤面する俺とは反対に、戸村はくすくすと楽しそうに笑っている。
「こんな子供っぽい高木君はじめて見た」
「...さっさと宿題進めようぜ」
なおもにこにこしている戸村を無理矢理見ないことにして俺は理科の宿題に意識を向ける。

 

集中して問題を説いているうちに、徐々に顔の温度も下がり、自分のペースを取り戻すことができた。
喉がかわいたのでジュースに手を伸ばす。
「ねえ、その氷ってなんのカタチ?」
「え?なに?」
戸村は、俺のジュースに浮かんでいる氷のことを言っているらしい。
「あぁ、なんかシロクマらしいけど...」
「へぇ〜高木君ちっておしゃれな氷使ってるね」
「これっておしゃれなの?うちに昔っからあるからおしゃれとか思った事ない」
「おしゃれだよー。流氷に乗ってるみたいで素敵」
やたらと関心する戸村を横目に俺は容赦なくコップを傾けてジュースを飲む。氷はあっけなく転覆し、哀れシロクマは水没した。
「あぁ!もったいない!」
戸村は幼げな見た目に反して落ち着いた大人っぽいやつなんだけど、たまに見た目通り子供っぽい反応をする。
まあ...俺も人のことは言えないか。中三なんて大人か子供で言ったらまだまだ子供だろう。
「もったいなくねーよ。またうち来たら、戸村のジュースに入れるよう母ちゃんに言っとく」
「わーいっ」
「戸村、子供みたいだな」
「さっきの高木君ほどじゃありませーん」
ふたりして笑う。初めて家に呼んだ気恥ずかしさも、母ちゃんの茶々による動揺も吹きとんだ。
「ねぇ、高木君」
戸村が改まった急に改まった様子で俺の横に座ってきた。え、なんだ、何が始まるんだ。
「私たち、つきあってるよね?」
「あ、あぁ」
「じゃあさ...」
すぐ隣に戸村がいる。手を伸ばせば直ぐにでも届く位置にいる。これは...。
「...名前で呼んでもいい?」
「え、あ、ああ名前、名前ね!うん、そうしようか」
「ありがと、誠二くん」
「ゆかり...さん」
「呼び捨てで良いよー」
名前を呼ばれるのは嬉しいけど、なんだか落ち着かない。間が持たない。
「なんか、照れちゃうね。さ!残りの宿題やらないとね」
そそくさとまた向かい合わせに座る戸村を心底かわいいと思った。
ほんのりと赤く染まる頬にちょっと理性が飛びそうになる。なんか、勉強とかもうどうでもいい。
そう思って、戸村、じゃなかったゆかりに手を伸ばそうとしたとき、階段をどかどかと上がってくる音がした。案の定ノックもなしにドアが開けられる。
「あんた達、初めての部屋デートで浮かれるのはわかるけど、もうすぐ暗くなるからほどほどにしときなさい」
「わかってるよ!」
「あ、遅くまですみません。そろそろ帰りますね」
母ちゃんが来て、残念なような助かったような...。
我に返った俺は、自分の中にあんな激しい気持ちがあることに驚いていた。邪魔が入らなかったらどうしていたかわからない。
ぱたぱたと帰り支度をしている戸村を見ながら俺はこれから彼女を大事に出来るのか不安になる。
彼女が出来たことに舞い上がって、付き合うってことをちゃんと考えた事がなかった気がする。
俺は戸村と居るのが楽しいけど、戸村の方はホントに楽しかったのか?俺の独りよがりなんじゃないか?
「高木く、あ、誠二くん、どうしたの?表情暗いけど」
「いや、ごめんなんでもない」
首を傾げる戸村を直視出来ずに、俺はそそくさと立ち上がる。
「家まで送るよ」
「家までは良いよー、うち結構遠いの知ってるしょ」
「いや、送る」
なおも「えー悪いよー」と食い下がる戸村を無視して、母ちゃんに送ることを告げて玄関へ向かう。
「送るのは結構だけど、あんたも襲っちゃだめだからねー」
そんな母ちゃんの軽口も今の俺には洒落に聞こえない。駅までの道すがら俺の気分は沈んでいった。そんな心境のせいで、俺はつい早足になってしまっていた。
「ちょっと、誠二くん歩くの早いー」
「あ、ごめん」
足を止める。追いついてきた戸村が、いきなり俺の左手を握ってきた。小さいけどやわらかい手だった。
「ねぇ、もっとゆっくり歩こ?」
うつむきながら呟いた一言は小さくてもしっかりと俺の耳に届いた。
ゆっくりふたりで...そうだよな。
ふっと肩の力が抜けた。今は、隣に戸村がいる。それだけで良い。
ありがとうの代わりに、俺は小さな手をぎゅっと握り返した。
fin.

考え過ぎな通学電車

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「おい!おっさん大丈夫か!?」

俺は驚いた。どうしてあいつは、あんなに馬鹿なんだと。

 

朝の電車の中で、突然目の前のおっさんが倒れた。
ほかの乗客は反射的に避け、彼の周りに空白地帯が出来る。誰もが少しの後ろめたさを感じながらも、面倒事には近寄りたくないと顔にはっきり書いてあった。
そこに、見慣れた制服姿が割って入ってきた。
「おい!おっさん大丈夫か!?なんで誰も助けようとしないんだよ!おい!おっさん!」
周囲にも当人にもそう喚き散らす坊主頭は同級生の野上おさむだった。
野上は教室では同じ野球部の連中といっつも馬鹿をやっては教師に目をつけられ、成績は下から3番目、授業中はほとんど寝てるという奴だ。
倒れたおっさんが自分で身体を起こした。大丈夫だと言っているようだが、立てずに床に座ったままでいる。
電車が駅についた。おっさんは一人で立とうするが、野上は肩を貸しておっさんと一緒に降りていった。
誰かが報せたのか直ぐに駅員さんが駆けつけ、慣れた様子でおっさんの介抱を始める。
そして野上が戻ってくる前に、俺たちが乗った電車は発車した。あいつは遅刻確定だ。

 

「野上!遅刻するなと何度言えばわかるんだ!」
「だーかーらー、電車で倒れたおっさん助けてたら電車乗り過ごしたって言ってるじゃないすか」
「嘘をつくならもう少しマシな嘘をつけ!」
男のくせにヒステリックに怒鳴る担任を無視して、野上は自分の席に座る。担任教師もこれ以上は無駄だと思ったのかホームルームを再開した。
俺は後ろから坊主頭を見ながら口まねだけで「ばーか」と言葉を投げつける。普段から態度が悪いから信じてもらえないんだ。
「...もう少しちゃんと説明すればいいのに」
「え?何がですか?」
まずい、声に出てた。隣の女子、花宮がきょとんとした顔をこちらを向けている。
「いや、野上がさ。ホントなんだからちゃんと説明すれば良いのにってハナシ」
くりっとした大きな目をなおも不思議そうにしている。
「え、あれってホントなの?」
「まあ。朝、同じ電車に乗ってた」
「えー、だったら教えてあげれば良いのに」
「やだよ。なんで俺が。めんどくさい」
「...野上君かわいそうです」
「信じてもらえないのはあいつの自業自得だろ」
今度は明らかな非難の目を向けてくる。なんなんだ。俺は間違ったことは言ってないぞ。
だんだんと無言で睨んでくる花宮の視線に耐えられなくなってきた。
「...緒方君、頭良いけど弱虫な人ですね。電車でもめんどくさいって見て見ぬ振りしたんでしょう」
そう言ったっきり必要以上に顔を逸らして、一日中こっちを見ようとはしなかった。

 

花宮の言葉が頭から離れない。
そのせいで、今日は一日中授業にも部活にも集中出来なかった。
帰りの駅のホームで、すっかり暗くなった空をぼーっと見つめながら何度も考えたことをまた繰り返す。
「なんで俺があんな事言われなきゃいけないんだよ」
あの場にいなかったくせに。何も考えてないくせに。
あそこでおっさんに声をかけたら、最低でも遅刻は確定だった。そして遅刻どころかもっと厄介な事に巻き込まれる可能性だって大いにある。
ネットでもニュースでも頭のおかしな奴は世の中にたくさん居るんだ。
俺は何も出来ないただの高校生なんだよ。救急隊員でも無ければ医者でもない。駅員でもない。そんな俺に何が出来るっていうんだよ。
考えれば考えるほど関わらないのがベストだって結論が出るんだ。そりゃ罪悪感はあるさ、それでも動けなかった。動く理由が見つからなかった。
それに、動かなかったのは俺だけじゃない。周りの、他の奴らだって同罪だ。俺なんかよりちゃんとした大人や爺さんだって居た。そいつらは良いのかよ、なんで俺だけあんな事言われなきゃなんねーんだよ。
野上以外、誰も何もしなかった。野上以外は...。
あいつは、なんであんな風に動けたんだろう。
いや、わかってる。馬鹿だからだ。何も考えずに、人が倒れた!やばいじゃん!?って思って声をかけたんだろう。後先じゃなく、目の前だけを見た。
今の世の中、後先考えずに行動したら大抵痛い目を見る。それに気づいてからは、ちゃんと考えてから行動するってことを自分なりに実践してうまくやってきた。
なのに、なんでこんなに悔しいんだ。野上に負けてなんかないのに、何がこんなにひっかかる。考えないから正しいことが出来るってなんだよ。
耳をつんざく汽笛と、強烈な光で一瞬思考が止まった。
気づくと電車がホームに滑り込むところだった。次々と人が降りてくるので慌ててドアの横によけ、電車に身体を滑り込ませる。
電車内はいつも通りそれなりに混んでいた。まだマシな満員電車というほどだ。
発車して少し経ったころに気がついた。
少し先、きれいな女の人の後ろに立っている中年男の手がおかしい。人に押されてる訳でもないのに手をスカートに押しつけているような...。
ようなじゃねえよ俺!あれ明らかに痴漢だろ!他に気づいてるやついないのかよ。
駅員さん...この満員電車でどうやって呼べと。他に頼れるような知り合いもいない。
痴漢だって指摘して、しらばっくれられたらどうする。社会人と高校生の言うこと、周りはどっちを信じる。
あのお姉さんだって痴漢されてるのに声を上げないってことは、俺が指摘した後も何も言えない気弱な性格かもしれない。そしたらあいつの言い分が通って俺は名誉毀損?慰謝料?
あ!そうかあの二人は実は恋人でそういうプレイなんじゃ...なんだそれならここで俺がでしゃばる必要なんて...ってそんな訳あるか馬鹿か俺!?
あの人明らかに困ってるだろ。こっからでも泣きそうに見えるよ。助けてあげたいけど俺には何も...。
「頭良いけど弱虫な人ですね」
「大丈夫か!?おっさん!」
思考でがんじがらめになった俺を殴りつけるように、花宮の言葉と野上の姿がフラッシュバックする。
俺は歯を食いしばって男に近づいた。
「おい、やめろよ」
自分で出そうと思ったよりもかなり小さいうえに、声が震えてしまった。
しかも電車の音にかき消されて誰にも聞こえなかったらしい。はは、かっこわりい。
だが、男は視線でこっちに気づいたようだ。
それでやめるかと思いきや、怖いなら黙ってろよとでも言うような目で、口元があざ笑っていた。
俺はうつむく。ああ、そうだよ怖いさ。色々最悪を考えたからめっちゃ怖えよ。
でも、だけどさ、もう懲りてんだよ。かっこわるい自分にはなりたくない。頭でっかちで弱虫な自分はもう嫌だ。
勘違いを笑われる?名誉毀損?殴られるかも?上等だ。
考えて考えて、かっこ悪い生き方をするくらいならそれくらいのリスク飲み込んでやる。野上にも負けない。花宮にも文句は言わせない。
これは、そんな自分になるための第一歩だ。
「おい!お前!痴漢なんかしてんじゃねえ!」
社内の人がいっせいに俺の方を向く。
そして俺が指さした先の男も注目を浴びる。
その視線にたじろいだ男が慌てて逃げようとするが、この人混みの中ではそれも無理そうだ。
「適当なこと言うなよガキが。訴えるぞ」
「適当じゃない!俺はあんたが痴漢してるところを見た!」
「この満員で?ほかに見た奴はいるのかい?」
案の定、お姉さんは何も言えずに俯いている。他の乗客も誰も声をあげない。遠巻きに見ているだけだ。
「ほら、誰も何も言わない。知ってるか坊や。こういうの名誉毀損って言って慰謝料も取れるんだよ?」
いいよ、わかってた。
所詮ガキに出来ることなんて、この程度だよ。とりあえず痴漢自体はとめられたし、後は駅に着いたら全速力で逃げよう。足には自信がある...。
「私もその人が痴漢してるの見ました!」
信じられなかった。声の方を振り向くとそこには花宮が仁王立ちしていた。
「車掌さん、あの人です!」
花宮の後ろには車掌が控えていてすっと俺と男の間に割って入った。そして花宮がお姉さんにそっと近づく。
「大丈夫ですか。怖かったですよね。でも、もう大丈夫ですから」
安心させるように肩に触れる花宮に対し、彼女は泣き崩れた。子供のように怖かったと訴える彼女の姿に、男は完全に追いつめられる。逃げようとするも、車掌の太い腕に捕まり拘束されていた。
呆気にとられている俺を置いて、事態は直ぐに収束した。男は車掌に捕まえられながら電車を降ろされた。
「花宮、これって...」
「私はか弱い女の子なので車掌さんを呼びに行ってました。緒方君みたいに自分で止めに入る勇気は出ませんでした」
少しばつが悪そうな花宮の笑顔にようやく気持ちが落ち着いた。
「いや、結果的に花宮が正解だっただろこの状況」
「確かに結果はこうですけど。でも、緒方君を見直しました。今朝は失礼なことを言ってごめんなさい」
「うるせーよ」
今度は俺が顔を背ける番だった。心がむずがゆい。
でも、今日はもう何も考えずに眠れそうな気がする。


fin

足のないワイングラス

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我が家にワイングラスがやってきた。

けれど、おそらく今みなさんが想像したであろうワイングラスとは少し違う。
それには"足"がない。一見するとただのコップに見えるが、これは確かにワイングラス。飲み口がすぼんだ、開きはじめの蕾のような形をしている。
中学生の私はもちろんワインは飲ませてもらえない。でも、お母さんとお父さんがそのグラスでワインを飲んでいる姿は、普段の我が家にはないおしゃれな雰囲気に満ちていた。

 

こっそりお酒を飲むほどの冒険は出来ない(うちのお父さんは怒ると結構怖い)。だけど、グラスを使ってみるくらいなら大丈夫なはずだ。
お母さんが買い物から帰ってくるまでが勝負だ。私は家に帰ってくると制服を脱ぐ間も惜しんで食器棚からワイングラスを取り出す。
「あ、軽い...」
手にとってみたグラスは薄いガラスで作られていて、すごく軽かった。なんだか持っているだけで割ってしまいそうで不安になる。
グラスをそっと机におき、スクールバッグから帰り道の自販機で買ったグレープジュースを取り出す。
まあワインもブドウから作るらしいし、似たようなものだろう。キャップをひねり、ジュースをグラスに注ぐ。
「おぉー」
見た目だけなら、完璧だ。大人の世界がそこに在る。
さっそく飲んもうとグラスを口に運ぶ。するとジュースを飲む前に、グレープの香りが鼻いっぱいに飛び込んできた。
思わず飲むのをやめて、そこで香りをかいでしまう。このジュースは何度も飲んだことがあるけれど、こんなに良い香りしたっけ?
私はグレープの香りを存分に楽しんだあと、ジュースを一気に飲み干した。なんだかんだ緊張して喉が乾いていたのだ。
そこで、ひらめいた。このグラスでジュースの香りがよくなるなら、ほかの飲み物も同じなんじゃないか?
私は家にあるだけの飲み物を並べてみる。
牛乳、冷たい緑茶、炭酸水、アイスコーヒー。
グラスを水でさっと洗って順番に飲み比べていく。
牛乳は、あまり変わらない。少しミルクっぽい香りがするかもしれないなーと感じたくらい。
緑茶は当たりだった!透き通った緑が透明なグラスに映えてキレイだし、お茶の香りも際だってすごく美味しかった。いつもの飲んでいるお茶と同じなんて思えない。
炭酸水は、何もかわらなかった。しかもなぜか味が全くないシュワシュワしてるだけの水だったのであまり美味しくない。
最後のアイスコーヒーは...飲めなかった。実は飲むのがはじめてで、あんな苦い飲み物だとは思わなかった。なんとなく大人っぽい香りはしたけれど、苦くてそれどころじゃなかった。あんなの飲み物、誰が好き好んで飲むのだろう。

 

いつもの飲み物が、グラスひとつで違うものに感じる。
ちょっとやり方を、見方を変えるだけで変わらない毎日の中でも新しい発見がある。
それは素晴らしいことじゃない?
...なーんて、言い訳してみたけど、買い物から帰ってきたお母さんにはやっぱり小言を言われちゃった。
fin.

ちょうどサーキュレーター

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「え、これ扇風機でしょ?」

「違うよ、それはサーキュレーター
エアコンなんてついていない俺の安アパートの一室で、美智が小首をかしげる。
屋内とは思えないうだるような暑さと湿気の中、少しでも涼しさを求めて彼女は風の正面を陣取っている。
「それって何が違うの?」
「えーと、サーキュレーターってのは室内の空気の循環を目的で、どちらかと言えば業務用で使われることが多くて...」
「へー?」
聞いてきた割にそこまで興味がなかったのか美智はサーキュレーターに向き直って、あ〜〜と子供じみた事をしている。
そんな彼女でも、吹き流される細く長い髪がきれいだと思うのは惚れた弱みだろうか。

 

美智との付き合いももう3年になる。
なんとなく、大学を卒業したらこの関係も終わるのかなと思っていたけれど、そうはならなかった。
悲観しがちな俺の想像を笑い飛ばすように、美智は相変わらず俺の隣にいる。
いや、美智は社会人になってから変わった。あまり自覚はないけれどたぶん俺も変わったんだろう。
変わったから、大人になったからこそ、この関係を続けていられる。そして最近は、この居心地のいい関係をさらに進めたいと考えている自分もいる。

 

風に当たり続ける美智を注意するつもりで、さっきの会話の続きを始める。汗ばんだ肌が冷えたら身体に良くない。
「それ、直接風に当たるためのものじゃないんだけどな」
「え?じゃあ何に使うの」
「壁とか天井に向けたりして部屋の空気をかき混ぜるのに使うんだよ。上の方にたまる暑い空気と、下の方にたまる冷たい空気をかき混ぜて、段々ちょうどいい温度にするの」
「ふーん、2つの空気がだんだん混ざってちょうど良くなるって、なんだか恋愛みたいだねぇ」
美智はたまに詩的なことを言う。一応文学部だったからだろうか。
「それなら、サーキュレーターはキューピット?」
「んー、それはちょっと違う気がするー。なんだろう、シチュエーション?あっはー、適当なこと言ったわ私」
そう言って笑顔で振り返る美智を見て、自然と言葉がこぼれた。
「なぁ、そろそろ一緒に暮らさない?」
美智は急な提案におどろく様子もない。
「んー、同棲?」
「もし、美智さえよければ結婚でもいいと思ってる」
「でもいい〜?」
あ、まずい。間違えたかもしれない。
笑顔でも、怒っていると目でわかる。
俺はその場に正座し直して、やり直しに臨む。
「俺と結婚してください」
頭を下げた俺からは美智の表情は見えない。暑さに追いつめられるようにじりじりと判決を待つ。
「まったくさぁ、なんでこんな場所とタイミングでプロポーズなんてするかなぁ」
不満声に頭を上げると、赤い顔をほころばせている美智がいた。
「つい、なんか勢いで...ごめん」
「でも...ありがと。嬉しい」
美智が正座し直す。
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
それから、かしこまった空気に耐えきれずふたりで笑った。
「俺ら、ちょうど良くなれるかな」
「まあ、ゆっくりちょうど良くなろうよ」
fin.

線路沿いの怪談

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降り注ぐ蝉時雨に負けるものかと、私は足を進める。
今日で3日連続の猛暑日だ。日陰が少ない線路沿いの道のため、女子としては日焼けが気になる。
人間にはうんざりするような暑さも、蝉には快適なのだろうか。騒々しい鳴き声からは猛々しい生命力が感じられる。少し分けてほしいくらいだ。
私の横を小学生くらいの男の子たちが虫取り網を持って追い抜いていく。高校生にもなると、子供のような空元気は湧いてこない。
祖父母の家までは歩いて約30分ほどだ。駅と駅とのちょうど中間に位置し、住宅街の線路沿線のためバスも通っていない。この凶悪な日差しと気温の中を歩いていかなくてはならない。
普段ならば祖父が車を出してくれるのだけれど、今回は家族の中で私だけが遅れて到着する日程だったため徒歩となった。やむを得ない事情とはいえ、私は別行動を取った後悔がにじむ。額の汗を拭い、少しでも日陰を求めて道の端を歩く。
「いっそ、日が暮れてから来ればよかったかな…」
でも、この辺を夜歩くのは少し怖い。
——?
何故そう思うのだろう。地元じゃないけれど、この辺は来るたびに小さい頃から兄と遊び回ってよく知っているはずなのに…。ふと、記憶に浮かび上がるものがあった。

 

“ここらじゃ夜の線路にゃ、ヨミワタシが出るんだぞ。日が暮れたら線路に近づいちゃダメだ”

 

そういえば、小さい頃に兄と一緒に祖父からそんな怪談を聞かされたっけ。あれはまだ私が小学校低学年の頃だったか。
確か、夜の線路には時々普通の電車とは違う、死者をあの世へと運ぶ電車が走っていて、その電車は悪い子供の魂の魂を食って動いているという。夜中まで遊んでいる悪い子供はヨミワタシに食われてそのまま地獄に連れて行かれる…なんていう話だった。
高校生になった今の私なら、そんなものは作り話だと笑って聞き流せるけれど当時の私はその話をすっかり信じ込んだ。祖父は近くの児童会館で読み聞かせのボランティアに参加していることもあり、語り口調がプロ並で、幼い私に恐怖を植え付けるには十分過ぎた。その後しばらくは両親と車に乗っている時でさえ、線路に近づくと泣き声をあげていたくらいだ。

 

なぜ祖父は、あんな話をしたのだろうか。
基本的に子供好きで、優しい人だ。児童会館でも子供達に人気があるという。そんな祖父が私をいたずらに怖がらせるような話をしたということに違和感を覚えた。
と、そこまで考えた所で自販機を見つけた。しかも日よけがついた休憩所付きだ。一も二もなく、小銭を入れてよく冷えたスポーツドリンクを取り出す。火照った体が内側から冷やされるのが気持ちいい。日陰だからかささやかに吹く風も先ほどより涼しく感じた。とりあえず、これを飲み終えるまでここで一休みしていくことにする。ふぅ。
休憩所には地域の人達のための掲示板が用意されていて、将棋や囲碁など文化系サークルの勧誘チラシや、夏祭りのお報せ、道路や線路工事のお報せなどがまばらに貼られていた。普段は気にも留めないような情報ばかりだけれど、喉を潤しつつぼんやりと眺めてしまった。

 

さて、そろそろ行こうか。再び炎天下に足を踏み出すのは勇気が必要だったけれど、気合いを入れて行軍を再開する。
やはり暑い。
先ほど補給した水分が早くもじんわりと背中から抜けていくのがわかった。

祖父の家までもう少しというところで、見覚えの無いものを発見した。それは普段見慣れているものよりも半分ほどの大きさの、小さな踏切だ。私が小さい頃、祖父の家の近くには踏切なんて無かった気がする。
気になって近くで見てみると小さいだけでなく、真新しい光沢を放っている。そういえば、先ほどの休憩所で見た張り紙の中に線路工事のお報せがあったっけ。あれはこの踏切のことだったようだ。ということは、最近出来たばかりなのだろう。
そこまで理解した所で、もうひとつ不思議なものを見つけた。踏切の隅に小さなお地蔵様が立っていた。踏切と同様、見た目で新しいものだとわかる。横にある石碑には何やら文字が書いてあるが、石に掘ってあるうえに達筆過ぎて読むのが難しい。しゃがんで顔を近くに寄せる。むむむ…。
「どーしたー?大丈夫かい?」
「わっ」
石碑を読むことに集中していた私は、頭上から降ってきた声にびっくりして尻餅を着いてしまった。
「いてて…」
「大丈夫かい?お嬢ちゃん」
声の主は大丈夫かと言葉を繰り返す。見ると、初老の男性が見下ろしていた。清潔感のあるシャツに麦わら帽を被った、しゃれたおじいさんだった。大丈夫です、と返事をして立ち上がる。どうやら道ばたでうずくまっているように見えた私を心配して声をかけてくれたようだった。
「こんなとこでしゃがみ込んで、何をしてたんだい?」
「あ、すみません。こんなところに新しくお地蔵さんを立ててるのが珍しく、つい何て書いてあるのかなって…」
「あぁ、それな…。ここであった事故のために立てたお地蔵さんだよ」
「事故?」
「少し前まで、この道に踏切は無くてな。見通しが良くてスピードが出る区間じゃないから昼間は大丈夫なんだが、暗くなってからはちょいと危ない道だったんだ。周りの住人はそれなりに気をつけて使ってたんだが、あるとき子供が事故にあっちまって…。その子の事があってようやくちゃんと踏切が出来たんだ。このお地蔵様はその子の供養と、俺ら大人に対する戒めだ」
私はなんと言って良いかわからず、お地蔵様に手を合わせて見知らぬ子供の冥福を祈る。自分の語彙力の無さが情けない。
「いつか、こんな事になるんじゃないかと周りみんなも薄々思ってはいたんだよ。ちゃんと踏切が出来るまで封鎖するなりすれば良かったんだ。なのに…」
その言葉の先をおじいさんは言わなかったけれど、なんと言おうとしたのかは想像がついた。この道を封鎖してしまうと、線路を渡るには随分な遠回りをしなければならない。ここに住んでいるものにとっては必要な道だったのだろう。懸念を抱きつつも、ついつい目先の便利さを優先してしまい、後回しにし続けた末の事故。
事故にあった子供の親はどれだけやりきれなかったことだろう。普段から子供に注意はしていたのだろうけれど…。
「あ…!」
そうか、そういうことだったのか。だから、祖父は。
「ん、どうしたんだい?」
「いえ、なんでもないです。お話聞かせてくれて、ありがとうございました」
おじいさんに頭を下げて、再び祖父母の家を目指す。

きっと祖父も、この踏切の事は知っていたのだろう。
幼い私は、ここに来るといつも兄と一緒に近くの空き地や公園で遊んでいた。小学校にあがり、出来た兄も一緒だったためその頃には両親も家で私たちの帰りを待つことが多くなった。
背伸びしたい年頃の私や兄が、勢い良く家を飛び出して行くのを見ていた祖父は、ふと不安になったのではないだろうか。
あの道を通って線路に入ってしまうんじゃないだろうか、と。
しかし、私たちは冒険したい年頃の子供だった。あの道は使うな、と言った所で素直に聞くとは思えない。むしろ興味を持ってしまうかもしれない。ボランティアでたくさんの子供たちと接している祖父は子供の心理にきっと敏感だった。
そこで、考えたのがあの怪談だったのではないだろうか。線路に近づけさせないことを目的とした作り話。回りくどいやり方かもしれないが、確かに効果はあった。
というか有り過ぎだろう。高校生にもなって、まだ不吉さを感じさせる怪談なんて。
「そこまで怖がらせなくてもよかったんじゃないかなぁ」
そう口に出してみたところで、涼し気に笑う祖父の顔がよぎる。
まったく、とんでもないおじいちゃんだ。まあ、全部私の妄想かもしれないけれど。
少し愉快な気持ちになって顔をあげると、ようやく祖父の家が見えてきた。