暮らしの挿話

日々の暮らしのなかに在る、身近なものたち。それらにまつわる物語を綴ります。

インターネットの黒い雨

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黒い雨が見える。
理不尽な上司に罵倒される若者に、男から見下される女に、いじめられている子供に、黒い雨は誰にでも降り注ぐ。
ときに数滴、ときに土砂降りに、黒い雨はいつもどこかで誰かを濡らしている。
度が過ぎれば、雨はその人間を殺す。窒息させるのだ。もちろん物理的にではない。心が、精神が、呼吸できなくなるらしい。
俺は仕事柄、そうやってずぶ濡れになった人間をよく見る。死期が近い人間の周りは、多かれ少なかれいつも黒く濡れているものだ。
黒い雨は、人間の悪意。
俺の名前は忌一。まあ、いわゆる死神だ。

 

はじまりは些細な書き込みだった。
「ウルブスの堂島って八百長してたんじゃね?」
誰が書いたのかもわからない匿名掲示板での一言から、それは始まった。
いつの世でも有名人の醜聞は大衆の娯楽だ。プロ野球選手ほどの知名度ならば、根も葉もない、ただのやっかみやクレームのような噂話はいつもどこかで囁かれている。本来それらは表立って語られる事はない。
しかし、堂島は運が悪かった。
そう、単純に運が悪かったのだと忌一は思う。

 

ウルブス10年ぶりの悲願であるリーグ優勝がかかった試合の終盤。その打球が打ち上げられた瞬間に誰もが思った。
「これでウルブスが優勝だ!」
堂島のポジションへゆっくりと落ちていく平凡な打球。確実にアウトになるだろう。しかし、堂島のグラブはボールを取り逃がした。
あり得ないミスだった。堂島は地面に落ちたボールを慌てて広い全力の返球をしたが、それでも間に合わない。ドラマさながらの幕引きに、敵チームからの歓声が爆発した。この瞬間のファンからの堂島への悪意の雨は俺にも理解できるものだった。

その劇的な敗北以来、堂島の不運は続く。勝負時に出番が回ってきては、ことごとく盆ミスを繰り返した。事態を重く見たウルブスの監督は堂島の降格を決定。その通告を受けた堂島は引退を宣言。球界から姿を消した。引退の決意がプライドゆえか、諦めゆえかは世間は知らない。

 

八百長疑惑のきっかけは、ただのやっかみから始まった。ネット上の巨大匿名掲示板に立った「元プロ野球堂島の自宅が豪邸過ぎるwww」というスレッドが始まりだったようだ。
そこには海外の富豪のような屋敷のプールで健康的に泳いでいる堂島選手の笑顔の写真が掲載され、それに関しての有象無象なコメントで溢れていたのだが、ある意見で様相は一変する。
「堂島の経歴であんな豪邸をもてるのはおかしい。あの経歴じゃそんな金稼げねーよ。せいぜい年俸だって○○円くらいだろ?」
そこから一通り堂島の資産について盛り上がり、堂島の生活が次々と暴かれていった。
プロ野球入り直後から現在までの紆余曲折。自称元同級生、元ご近所、元球団関係者といった人々からの書き込みで堂島の今までの暮らしぶりが明らかになる。
一人一人の書き込みは憶測、推測、邪推かどうか判別のつかないものだ。ただ、数が集まればそれに流される。それがこの国の人々の特長だ。自分とは関係がない、どこかの恵まれた有名人相手ともなれば、その勢いはもう止まらない。
堂島の金回りが良くなった時期が、例の劇的な敗北後からだと断定されるのに、さして時間はかからなかった。

 

そこから先は、まるで坂道を転げ落ちるような顛末だった。
「堂島元選手と○○組の黒い取引!八百長は真実か?」
「元プロ野球堂島の妻は元風俗嬢?」
「試合を操る黒い影。堂島は操り人形だった」
「恥を知れ!負けを金に換える錬金術師:堂島正臣」
「噂の堂島選手の娘がかわいすぎる件について」
堂島に関する醜聞がネット上で爆発した。堂島の野球人生を高校はもちろん、リトルリーグまで遡りそこでの反則行為まで調べあげてあげつらう。真意は関係ないようだ。
激しく炎上した炎は、本人だけでなく家族、友人など堂島の親しい人々にまで及び、ついにはマスメディアまでこの話題へ言及し始めた。
それだけ取り上げられても証拠は出なかった。あるのは人々の心に取り憑いた果てしない疑惑だけ。しかし証拠など関係なく、祭りだと言わんばかりに顔の見えない群衆は群がっていった。
堂島が抵抗すればするほど、ネット上には堂島をこき下ろすコメントが溢れ、テレビから発信される言葉は野球など関心のない人々にも堂島への悪印象を植え付ける。そもそも、やっていないことを証明するのは相手が諦めない限り、もしくは飽きない限りは続く悪魔の証明だ。
今や堂島への悪意はネット上、メディア上にはとどまらない。彼の自宅の壁は落書きされ、玄関には常に記者が貼りついている。嫌われ者、不正を疑われた者には何をしても許される、そんな思い込みを免罪符に人々が堂島の私生活を侵食した。

 

今、私の目の前で揺れてる堂島は真っ黒に塗れている。
家族は、どこか別のところに逃がしたようだ。
黒い雨は洪水のように彼に降り注いでいた。
一滴いってきは小さな、ほんの少しの悪意。
快適な自宅で、退屈な通勤電車で、何を思うでもなくなんとなく書き込んだおもしろ半分のコメントたち。まあ、大半は憂さ晴らしなんだろう。自身のままならない現実からくる苛立ちを、祭り上げられた見知らぬ生贄にぶつけているんだろう。
本人たちは悪意などではなく、ノリや好奇心だと言うかもしれないが、堂島にとっては紛れもない悪意だ。無数の悪意が大きなうねりとなって彼を呑み込んだ。
悪意の雨は、マスメディアや現実生活からも湧き出し堂島を濡らしていたが、ネットからの洪水が圧倒的だ。
怖い時代になったものだ。
私が死神として存在し始めてからの世界において、これほど悪意が気軽に、リーズナブルに発せられる時代を私は知らない。
全てが噂に過ぎず事実無根であっても、匿名性を許された人間はどこまでも分別のない言葉を垂れ流すのだろう。
気の毒に。膨大で気軽な黒い言葉の洪水が、蛇のようにいつも獲物を探している。

 

嫌な時代になったものだ。
顔の見えない薄っぺらな悪意に濡れた魂に触れるのは、死神の私でも気持ち悪い。
本当に、気持ち悪い。

fin.